五条川の桜(尾北自然歩道)漫歩(愛知県 北部)<2012.04.16> |
尾北自然歩道
永徳二年(1383) 堀尾氏邸宅跡に建てられた八剱社<はっけんしゃ>(大口町)
尾北自然歩道は東海自然歩道の支線として1972年に開設されたもの。 起点は犬山市の入鹿池の入鹿大橋,終点は岩倉市の希望の家。 入鹿池から尾張富士を経て,新郷瀬川に架かる富士橋より五条川堤防に沿う総延長27.1kmのコース。 1953年(昭和28年)五条川の本格的な改修工事に完成に合わせて約4200本の桜が植えられた。
2012年4月16日(月曜日),7年前にツアーで歩いたこのコースを今度は単独で歩いてみた。起点は名鉄小牧線羽黒駅(犬山市)。 ここから少し南に歩くと五条川の堤防道に出る。 堤防沿いに大口町を通り抜け,終点は岩倉市内の大市場橋。 そこから名鉄犬山線岩倉駅に着くまでの推定約17kmを「走破」した。 先月の3月17日,岐阜県本巣市の淡墨桜ウォークで28km歩いて以来の「ロングマーチ」である。
無論すでに満開の時期は過ぎていて,もう散り始めてはいたが,今年の桜の開花が1週間ほど遅れたせいでまだまだ咲き残っていたので十分鑑賞することはできた。 もうぼんぼりなどは取り片付けが始まっていたし,花見客はほぼ皆無だったが。 今回は少し歴史的なことも調べてみようとの意図もあり,それは収穫があった。
今回はあちこちの神社等へも寄り道したので約4時間を要した。 ちょうど行程の中間に「堀尾跡公園」がある。
堀尾氏は鎌倉時代末期に,(当地 現大口町の)御供所に本拠を構えた尾張の名族。 五条川から約百b南に門がある八剱社はその邸宅跡で,堀尾帯刀が熱田宮の八剱社を勧請して永徳二年(1383)に創建されたもの。
堀尾一族の中で傑出したの堀尾茂助吉晴(天文十二年<1543>〜慶長十七年<1612>)である。 秀吉・秀次に仕えて多くの戦功を挙げた。 天正一八年<1590>の小田原征伐にも従軍,秀次の下で山中城攻めに参加。 同年,家康の旧領,浜松12万石に封ぜられた。 秀吉の晩年には,中村一氏や生駒親正らと共に中老に任命され,豊臣政権に参与した。
秀吉没後は徳川家康に近づき,関ヶ原戦<1600>には怪我をした自分に代わって長子忠氏を出陣させている。 戦後,出雲・隠岐23万石を与えられ藩政を行うが,松江城を築いて間もなく没した。 墓は京都妙心寺の塔頭寺院の春光院と島根県安来市広瀬町の厳倉寺であるが,堀尾三代の菩提寺は松江市の円城寺にある。<現地説明看板(一部はWikipedia)による>。
堀尾金助の逸話はこうである。
天正一八年<1590>の小田原征攻めには,一族の金助が,当時佐和山城主であった堀尾吉晴の軍に加わるため。病床の父 方泰に代わり叔父佐衛門に伴われ御供所から出陣し,母は熱田の裁断橋まで息子を見送った。
終戦前に戦病死した金助を悼んだ母は念仏に明け暮れたが,世の人々のためにと二人が最後に見た裁断橋を架け替え,橋の擬宝珠に悲願を刻んだ。 銘文のうち仮名書きの文は日本女性の三大銘文の一つと言われている。・・・以下省略
※Wikipediaによると吉晴の生年は天文十三年<1544>,没年は慶長十六年<1611>としている。 これは陰暦と陽暦の違いによるものかもしれない。 またWikipediaには天正一八年<1590>の小田原征伐に従軍し戦病死したのは吉晴の「嫡子」金助と書いてある。